【野球】私は変則左腕に生まれたかった
私は圧倒的に野球をプレーするのが下手である。
中学時代だけ、三年間野球部に所属していたがレギュラーではなく、専ら声出しなどをやっていた記憶がある。
それでも、程よい感じにみな仲が良かったので、のびのびと部活を続けられたのはありがたかったし、今でも野球は好きでいる。
そして、三年間の野球体験を思い返すと、「他人にない才能でアピールする」という部分の重要性に気が付かされる。
中学くらいの部活とはいえ、各個人が持っている能力にはバラつきがあったし、どう頑張っても補えない差を痛感する場面もあった(逆にごまかせる部分もあったけど)。
当時の私は、「とりあえず言われたことをやってる」くらいの取り組み方だったので、大きく何かが伸びた経験はなかった。おそらく、自分の武器がなにか(あるいは野球に向いているのかも)わからず過ごしていたのだろう。
野球から離れた今も正確な答えは出せないが、強いて言うなら私は変則左腕に生まれたかったと思う。
これは別に、左利きになりたかった、とか横手投げにあこがれて、とかではない。
つまりは、それくらい自分の光る個性を磨いて勝負したかった、という比喩なのだ。
世の中には、どれくらい変則左腕がいるのだろう。きっと、世の中の多くの人は左右の違いはあれど、その人たちが住む世界のなかで、本格派や技巧派を目指しているのかもしれない。
そういった世界では、時たま変則投手は「逃げ」の代名詞として扱われる場合がある。なぜなら、見た目が変わっていて目立つし、明らかに自分たちの進む道とは違う次元にいるように思える存在であるからだ。
しかし、変則投手は見た目が変わっているだけで、突き詰めれば本格派にも技巧派にもなれる。その投げ方を選んだのは、その人の人生がのりやすいフォームだったからに他ならない。そこには、「こうでなければならない」などは当てはまらないように思える。
プロ野球を見ていると、やはり毎年どのチームにも一定数、変則左腕の選手は在籍している。ひいきで言うと、古くは森福投手や嘉弥真投手、他チームだと堀投手や高梨投手、宮西投手などなど…。
彼らがどうして、そのフォームを以ってプロの世界で活躍しているのか、私にはそのすべてはわからない。
けれども、彼らに共通して言えるのは、彼らがそれを武器として見つけたから、という事実なのかもしれない。
何が武器となって、世界で活躍する、自分を表現し認め伸ばしていく、自己を実現できるかは神のみぞ知るところだ。野球を経験し、そして野球を見続けるなかで私が発見できたのは、自分をもっと見つめて、やりたいことを磨き上げなさいという、至極真っ当で当たり前な知見であった。
程よく他者に迎合しながらも、あなたはあなたらしくて良いのだ。
そんなあなただけが投げられる、変則左腕の投球を見つけよう。そこには新しい活路がある。