【短歌】初心者の私が感じる「歌会こわい」とは
以前、「歌会がこわい」という一言で、Twitterあるいはネット上が賑わったことがあったらしい。
それについて、いろいろと意見が飛び交ったようだ。ただ、その時はまだ、私は短歌には触れてすらもいなかった。
そして、時が経ってひょんなことから短歌を始めた私にも、ありがたいことに歌会に出る機会が出来た。
本当に質の高い、良い歌会に参加できたとは思うのだが、怖さがなかったかといえば嘘になる。
未だ正式な歌会には2回しか参加していない、ぺーぺーな私だからこそ感じた思いを、せっかくの機会であるから少し綴ろう。
シンプルな「怖さ」
では、具体的にどういった怖さを感じたのか?
まずは「レベルの違いから生まれる怖さ」が挙げられる。
それは、他者へ本能的に感じる強さへの恐れだと感じる。何より、出てくる短歌の質が高いのだ。それも、何がどう高いのかよく分からないけれど高いと感じる、得体のしれない感覚が私にはあった。
そして、その得体のしれないものに(初心者なりに)精一杯取り掛かる私をよそに、ベテランさん達がスラスラと評を述べていく。
冒頭で私は「怖さ」と述べたのだが、初心者なりに悔しさという感情も生じる。
高度な読み取り合いの力に、私はなすすべもなく置いていかれていくからだ。
「助詞がどう」とか、「他の歌で似た表現を見た」とか、短歌愛ゆえに出てくるガチンコのぶつかり合い。最早そこに初心者の居場所は無い。というよりも、「初心者」という居場所しか許されない錯覚に陥る。
また、自分の渾身の作品があっけなく粉砕されることにも正直怖さがある。初心者だからとかは関係なく、詠み手として絶対に凹んで帰ってくる歌会という存在は、楽しさよりも怖さが上回ってしまうのは当然なのかもしれない。
以上は、初心者だから仕方のないことだとはわかっている。
けれども、もちろん「短歌が好き」という気持ちに偽りはない。そんな好きな気持ちだけではどうしようもない次元の応酬と、好きだからこその悔しさを感じる場所にいるハイレベルな詠み人たちの存在は、慣れていない人に怖さを感じさせるには十分な力を持っているだろう。
感想を述べることへの「怖さ」
この項目は、私個人の色味が特に強いので他者に当てはまるかは怪しい。ただ、言いたいので言わせてほしい。
それは、「私は批評に一切興味がない」ということだ。なぜならば、私にとっての短歌とは、上手いとか下手とかではなく感動や感覚の共有をすることに喜びを感じるもの、であるからだ。
つまり、一見分からなくっても、分からないなりに作品にアプローチしていく難しさが楽しいし、好きな歌を見つければもうそれは最高、作者とハイタッチをしたくなる。
だからこそ、私は感想を述べることに怖さを感じる。そもそも、「歌会こわい」っていう発言が取り上げられ様々意見が飛び交うっていうことは、「主観的要素たっぷりの感想だけ言う人に辟易している人の存在」を暗に示していることだと感じたからだ。
研鑽に熱心な人によっては、「感想じゃなくて批評を言え」とか思う人もいるだろう。その気持ちは大変にわかるし、いたとしたら「ごめんなさい」としか言いようがない。
でも、私は批評は興味がないし、苦手であるし、他に優れた評人を何人も知った。
私は私にしかない感想を述べたい。一(永久初心者ライセンス持ち)歌人として。
「感想や良いと思った点を伝えたい気持ちしかないけど、それっていけないことなのかな?」という思いから、主観的な感想を述べるだけの自分に怖さを感じる。
けれども、私が参加した歌会で、直接私が何か言われたわけではなく、皆さん温かく迎え入れてくださったと思う。良い歌会だった。それは大変に幸運なことで、感謝の念しかない。
敷居の高さへの「怖さ」
「歌会は敷居が高いな」というのは、私が2回歌会に参加して感じたことだ。
そこには、短歌が好きな人が集まるが故の、見えない結界みたいなものがあると思う。初心者、そして一市民として歌会に参加した私にとっては、初めの方に触れた居場所に苦しんだという思いが強い。
他の歌人に多大な良い影響を受けて参加している人は、特に歌人の話がバンバン出してくる。私は分からないので口を挟めないで、じーっとニコニコするしかない。
それって、歌会としてすごく健全なことであると思う。ただ、だからこその「所在なさげ」な時間が怖い。
初心者のワガママをあえて載せてしまうのであれば、別に無知でも良いし、感想だけ述べるのも許して、まず詠草を持ってきただけで褒めてほしい。ベテランさんも短歌のあり方に自由さを認める、そんな歌会が良いなぁと。
けれども、そんな歌会だと締りがないのかもしれない。だから、ある程度の敷居の高さがあることで高いレベルや短歌の精神は保障されるのだ。そんな決まりがあるような気が初心者としてはする。
最後に
こんなに言いたい放題で良いのか?ってくらいには言いたいことしか散らかしていない。
けれど、私が思っていたことは述べられたような、まだモヤモヤしているような・・・・、そんな感じだ。
とにかく、最後に述べたいことは「歌会は自由であってほしい」ということだ。それは、質の高さも低さのデコボコをすべて寛容に認め、日本語としての成立や不成立を楽しみ、それを前提に詠草の数々を認めていく、あるいはそうでないかっちり歌会も全然無くならないでほしい。ただし、他者の短歌の在り方には口出ししないで下さると嬉しい。短歌の形は個人にこそ帰するのであるから。
凹んだ心もだんだんと癒えてきて、また歌会行こうかなという気持ちにはなってきた。
この「歌会こわい」話は誰かと共有できれば良いなぁとも思いつつ、刃を研ぐことにしよう。