自己表現ぶろぐ

会社では冴えない社会人が、ネット弁慶になるためのブログ。好きなものや興味のあるものの感想を、ちまちま書きます。

【生活】「カラオケガラパゴス化」論

「カラオケ行きたい・・・・」という呟き。

日常生活、あるいはSNSなどで遭遇することのあるこの呟きが日夜絶えることはなく、もしも終わりが来るとすれば、それは「カラオケ」という一つの文明の終焉を意味するだろう。

 

ただ、私が「カラオケ行きたい・・・・」と呟かなくなってどれほど時が経っただろうか。

もちろん、カラオケに行かなくなったわけではなく、むしろ週1ペースで行っている。よく行くカラオケで変なあだ名が付いていても仕方ないペースだ。

しかも私の場合、「カラオケに行きたい・・・・」と思った瞬間にはカラオケに着いているという、プロシュート兄貴みたいな感じになりつつあるので、わざわざSNSで呟くことも無くなってしまったのだ。

 

しかし、その大部分が一人カラオケでの利用である。

友達を誘って行っても良いのだが、一人だと行きたいときにスッと行けてしまうため、気が付いたら専ら一人で利用することが増えてしまっていた。

身軽だし気を使わない分良い点もあるが、その一方でどんどん独自の文化を築くことになってしまった。つまり、選曲に独自色全振りの異様ともいえる空間が出来上がってしまったのである。

 

ということで今回は、「カラオケガラパゴス化」という問題について論じようと思う。時代を象徴する音楽がなかなか出てこない昨今だからこそ、この問題は他人事ではないのである。誰もにその危険性があり、今回はたまたま先に沼にはまってしまった私が、あることないことを語っていこうと考えている。

 

従来のカラオケは、気配りとチームプレイの賜物である

そう、今までのカラオケというものは複数人での協力プレイであった。

それは、例えば友達同士で盛り上がるためとか、お客同士でお店の良い雰囲気を盛り立てるため、あるいは会社の同僚とソツのない時間を過ごすため、といった目的が主流であったからだ。

そこには、選曲への忖度や気配り、様々な不文律を乗り越えた先にあるものを目指す文化があった。

 

しかし、昨今ではいわゆる「ヒトカラ」が市民権を得つつあり、一人でも気軽に歌えるようになってきた。つまり、選曲への気配りの必要がそこには存在しないのだ。

そのような土壌を楽しむことは結構であるが、あまり漬かりすぎると複数人でカラオケに行く際に弊害が出る恐れがある。

その弊害とは何なのであるか、これから提示していこう。

 

選曲がマニアックになっていく

 そう、ヒトカラのわかりやすい問題点としては、選曲が自分の趣味に偏っていくことである。それはたぶん、さしてマニアックでなかったとしても、自分の世界全開な時点で他者を寄せ付けない凄みがあるかもしれない。

そのような世界に身を置き続けた状態で、いきなり他者との気の遣い合いフィールドに立ち、普段歌わないAKBやら懐メロやらを歌えるかといえば、おそらく難しいであろう。せいぜい、自分の持ち歌でいけそうな曲を精いっぱい考えるのがオチではないか。

私なんか先日、「最近はColdplayを歌う」と言ったら友人に笑われてしまった。「いやhymn for the weekendそう歌うやついないだろ」、と。最高の友人である。

 

このように、ヒトカラで気兼ねなく歌い散らしていると、知らぬ間に浮世離れしていく恐れがあるため、注意が必要なのである。

 

気を遣うのがちっとも面白くなくなる

そもそも、ヒトカラが人々に浸透した理由は、「他者に気を遣わず歌いたい」というものが一つに挙げられる。

つまり必然的に、親しい友人はまだしも、そうでない人と行きたくないからヒトカラにハマるのである。そうであれば、接待カラオケの類いはストレスの温床でしかない。

 

選曲で独自の生態系を作ってしまった者は、おそらくだがカラオケにおいて他者に気を使える視野というか、その能力が衰えている場合が多いだろう。

「どうせ、このメンツでwalk the moon の曲歌えないし・・・・」とか、「柳のように揺れるネクタイの、を歌ったらダントツで嫌われる・・・・」とか、入りからネガティブ思考に陥り、その場を楽しむことができない。

うまく切り替えられる人は良いが、ガラパゴス化が進んでしまった人は、「カラオケにいるのに好きに歌えないなんて」という悲しい現実に打ちひしがれる可能性が高い。

そんな、ある種外来からの影響に弱いという点が、カラオケガラパゴス化の弱点であるといえよう。

 

カラオケガラパゴス化を迎えたまま生きるためには

もし、この記事を読んで思い当たる人がいても安心してほしい。

それは、「カラオケガラパゴス化現象は、時代が作ったものなのである」と。つまり、あなたは何も悪くないし、なんなら時代に乗っかって楽しめている人なのである。

既存の「複数人を盛り上げるためのカラオケ」という概念を、個人単位でも実現しようとする革新的な概念が、何かと衝突することは避けては通れない。

大事なのは、現実を受け入れ、あるがままを通すために行動を起こすことだ。そのために、以下ではささやかながらガラパゴスな人々(自分を含め)に言葉を贈ろう。

 

ヒトカラと「人から」

そもそも、他者とのカラオケの場合、あなたのカラオケの概念はガラッと変わるのだ、ということは覚えておいてほしい。

それは、ヒトカラではなく、「人から」になるのだ。何事もまずは他人から、自己犠牲の精神で臨もう。

ドリンクも基本はまずは「人から」注文を聞いて、自分のは一番最後に。選曲も「人から」で、歌えといわれたら歌えば良いし、先陣切る人がいればそれに続こう。

 

この、ヒトカラとは全く逆の心構えさえ出来れば、あなたはガラパゴス人でも問題はない。晴れてグローバルスタンダードの仲間入りである。

 

スナックへ行っても平気な武器を持とう

それと、選曲についてはおじさま達の社交場、スナックに行って通用する曲であれば大抵大丈夫だ。会社の上司相手にも使いまわしできるし、なんとなくのノリで老若男女を攻略できるはずだ。

というのも、ガラパゴス化を迎えた人々は、自身の選曲センスにこだわる印象が強い。これの次だったらこれを歌おうとか、なんであの曲は入ってないのか、とか、歌いたい曲に対しての想いというのが強いのである。

つまり、スナックで通用する選曲センスというのにも、少なからず敏感な人というのはいて、それを逆に楽しめるのではないかと思うのだ。

 

履歴で他者に触れる

あとは、前の人が歌った履歴に目を通してみるのも良い。

そこには、大体の特徴が浮き上がっているからで、アーティストがおおよその年代を象徴しており、様々参考になる。

私のように「あえてデートをしているかのような選曲をかます」ような変態がいなければ、若い人の流行や、中年の定番曲、同世代の懐かしい曲などが見えてくるはずだ。

また、「名前は知っているけれど、曲は知らない」なんてアーティストに出会えれば、一曲試しに聴いてみたり、歌ってみるのも楽しい。

 

いかがだっただろうか。

例え、浮世離れしてしまった人でも、これさえ押さえればなんとか生きて行けるであろう事柄はピックアップしたつもりだ。

よりヒトカラを楽しむためにも、参考にしていただけると幸いである。全てのガラパゴス化人に幸あれ。

 

最後に

え~、クソ新書の誕生である。

私自身の思っていたことをまとめるに留まらず、薄っぺらなことばっか書き連ねたまとめサイトの様な体裁に仕上がった。

まぁ、これでも楽しかったので、カラオケに行ったくらいには有意義な時間であっただろうと思う。以上。