【生活】霞食べ平民と近況報告
自分が最近思ったことを交えた近況報告。
日々書きたいことは色々と出てくるが、それらがなかなか満足するボリュームにならない。自分の浅さを痛感する次第である。
最近は、文章をブログに書き出すことからも離れていたため、ゆるやかに自分の思いや意見を振り返る機会として、雑多に書き出そうと思う。
☆
最近、久しく会ってなかった大学の同期の友達と先輩に顔を合わせる機会があった。嬉しいことである。
同期の子も先輩も物を収拾するタイプで、秋葉原で集まった際には、まんだらけだったり駿河屋だったりに足を運んで、世間話をしながらフィギュアなどを見て回る。
この時間が私は好きなのだが、自分自身では物を買ったりはしない。あくまで、付き添いといった感じで、名使用人かの如くの付かず離れずアクションを披露している(つもり)。
そこで思ったのは、「私は何の趣味にお金を使っているのか?」ということだった。
自分自身で答えは分かっていて、それは「食べ物」である。
食べ歩きとまでは動き回らないが、ちょいちょい行きつけのお店や気になるお店に足を運び、様々な食べ物の登場には目を爛々とさせて、自分のペースで余すことなく食事を楽しむ。一見すると素敵な時間である。
ただ、私が同期の子や先輩と比べてしまったのは、「モノ」として残るかそうでないかという点だった。なぜなら、物は収拾された後には、飾られ、使われなどして残るのに対し、食べ物は食べてしまったら終わりであるからだ。
もちろん、「食べ物はあなたの血肉となっているのだから、あなたとして立派に残っている」という考え方は出来る。ただ、私の場合はきっと、素敵に過ごした時間に食べた食べ物たちは血肉を通り越して、明日への頑張りとか夢見る気持ちへと変化していると思うのだ。実際、「また次も、こんなに素敵な時間を過ごしたい!」と感激し、単調なお仕事も乗り越えられているように感じている。つまり、「概念」というか「目に見えないし、存在するかも分からないエネルギー」に変貌しているのであった。
結末はハッピーエンドとも食べ物のろけ話とも取れるだろう。結果気が付いたことは、「私って霞食って生きながらえているよね」ということだった。仙人の出来上がりである。
余談ではあるが、「目に見えないエネルギー」だけでは飽き足らない私は、音に気を配りつつも、素敵な食べ物の写真を撮りまくり「モノ」としての存在価値をも見出している。星新一のSSに出てきたら、一発で夢の中で押しつぶされそうな如き欲深。リコール対象の仙人の出来上がりである。
☆☆
一昨日、鳥居みゆき著の「夜にはずっと深い夜を」を読了した。
どこかブラックでネジが外れてはいるものの、現実という世界でかろうじて人間として生きている人物がたくさん出てくる不思議な短編集。毎回、必ず寝る前にその世界に触れた。
こういう少しブラックな雰囲気が続く本を読んだ経験は浅かったので、雑に言うと「ヤベーやくしまるひろこの世界観」という感想なのだが、特に私はまえがきとあとがきの文章がとても印象深かった。
本当か嘘かは分からない、それでいて妙に地に足が付いている短文。「これこそが、鳥居みゆきの想像の世界の幅なのでは」と唸ってしまう、ふわりとした離陸と着地を味わえる。引用なんていうケチなことはしないので、ぜひ一見していただきたいと思う。
☆☆☆
昨日、1本満足バーを買った。
もちろん、食べる前にはCMみたく踊ってから食べた。それがとても楽しいのだ。
久々のブログ記事も書き終え、まさに「1本」で満足なのだ。そんな近況。