自己表現ぶろぐ

会社では冴えない社会人が、ネット弁慶になるためのブログ。好きなものや興味のあるものの感想を、ちまちま書きます。

【生活】一羽の鳥に教わったわびさび

ここ最近、外国の人が日本の良いところを褒めてくれるテレビ番組がやっているらしい。

見たことはないので内容には触れないが、この番組は「第三者の視点」を知れるという意味では、良い番組だと思う。気付きを得るきっかけとして、第三者の考え方というのは非常にパワーがあり、見えない部分を打ち壊して視野を広げてくれることもある。

日本に住んでいるからこそ見えなくなっている部分は必ずあるだろうから、そういったことに気付く手助けにはなる番組なのではないだろうか。

 

そんな日本に、古来より伝わっている「わびさび」という概念がある。

自分は未だ確固たる「わびさび感」を確立してないので、 9番セカンド本間満 的な概念だとしか認知していないが、神社仏閣や古い町並みから立ちのぼってくる古の薫りを感じ取る好きで、その薫りこそがわびさびなのかな、とは考えている。

そんなわけで、以前京都を一人でフラフラする時間があった際には、手近な神社仏閣を見て回った。いわば、修学旅行の再履修である。

今回は、その際に立ち寄った龍安寺での出来事を記そうと思う。

 

龍安寺と言えば石庭が有名で、私も中学の修学旅行の際に寄った(気がする)。

それで、もう一回くらいはこの目で見ようかな、と思ってウキウキ気分で立ち寄ったのだ。

流石に定番観光スポットということもあり、その日はそこそこの数の人々が訪れていた。そのため、石庭までの道中は中盤待機という、さながらセキテイリュウオーのような戦法でお目当ての石庭まで歩いて行った。

 

ただ、いざ石庭を見ようとすると、周囲がなんだか騒がしい。

そう、スマホの隆盛により、みんなパシャパシャとスマホで写真を撮っていた。セルカ棒を持っている人の姿も見受けられた。私と渡しとのツーショットである。

ひっそり落ち着いた佇まいを期待していた私は、少しがっかりしてしまった。もちろん、スマホで写真を撮る気はなかったし、ただ静かな龍安寺が見たかっただけなのに。

 

私は喧騒を避けるように、石庭とは反対方向の廊下へと歩みを進めた。

裏手に回ると騒がしさは少し和らぎ、落ち着いた空間が広がっていた。私はホッとした気持ちになると同時に、文字が書かれた小さな立札の存在に気が付いた。

「吾れ唯だ足るを知る」

その言葉が、その瞬間非常に身に染みた。自己陶酔だと笑わば笑え。ただ、その時の状況も相まって、直感的に「わびさびって、足るを知る気持ちから生じる感覚なのかな」という気付きが降ってきたのだ。

すると、一羽の鳥がやってきて、近くの実がなっている木に止まった。どうやら、お食事場所らしい。

1つ2つと、その鳥が真っ赤な実を美味しそうに啄むさまをボーッと見ていたら、まだまだ沢山の木の実を残して、その鳥はサッと飛び立っていったのだ。

 

衝撃だった。

言葉にされてようやく気が付いた「足るを知る」心を、鳥は当たり前のように持ち合わせているんだと思い知らされたからである。まさに自然は真理を湛えており、そこには語彙などは無力なのかもしれない。

 

そんな、校長先生が朝礼でのお話しでヘビロテしそうな経験を以前にしたので、ここに記した次第。もちろん、今の石庭がこんな状況ではないことを祈っている。

自然は何でも知っているという、クッキングパパのED曲風味なことが言いたかったのだが、古き良きわびさびを保つためには、ちょっとの我慢が現代人には求められているんだとも言えるのではないだろうか。

龍安寺が誇れる「わびさびテンプル」であることを願って、最後にこの曲を。いや、「スーシー、テンプーラ」みたいになってる!(日本版ステージタイトルはわびさびテンプルだけど、海外へのわびさびの普及はまだまだ道半ばなのかもしれない)


Ape Escape - Sushi Temple