【音楽】サマソニ東京1日目に行ってきました(2016,2017)
昨日、サマソニの1日目に参加するべく、海浜幕張まで足を運んだ。
出かけようかと思った矢先に、先に幕張に着いていた友人から「ごめん、チケットを置いてきた」という衝撃告白があり当日券での参戦となったが、暑さに負けずにとっても楽しむことができた。
ということで、今回は鉄を熱いうちに叩くがごとく、昨日の感想を適当に綴ると共に、昨年も参戦したサマソニ東京1日目の感想も合わせて お焚き上げ 載せようと思う。
QVCとZOZOとが交差する、まどろみの備忘録。
サマソニ2016
恥ずかしながら、私は音楽フェスは勿論のこと、音楽ライブですらなかなか行かない。
そのため、昨年のサマソニこそが音楽フェスの初陣だったのである。
お目当ては、ヘッドライナーの一角であるTHE OFFSPRINGだったが、友人の気になる会場にも足を運びつつ時間を潰すことになった。
余談だが、午前中法事だった。サマーソニックにもいろいろな形があるんだね。
・cero
「気になるオシャレバンドがいる」との友人の一言をきっかけに、私達はガーデンステージへと向かった。
この日は雨が降っていたせいか、ガーデンステージへと続く道は泥濘の様を呈しており気分は最悪。赤壁から退却している曹操軍の気分を味わうには絶好の場所だったろう。
しかし、そんな気分を吹き飛ばすようなパフォーマンスをceroは見せてくれた。
海を近くに感じられるステージの上から流れてくる、ひょっとするとカリブっぽいような程良く落ち着いたサウンド。そして、それに乗って聴こえてくるゆったりとした歌声が耳に心地よい。のんびりとした土曜日の昼間を鮮やかに彩る素敵な時間がそこにはあった。また、ボーカルのどこかぎこちないMCは全く気にならず、むしろ初々しさが感じられて良かった。演奏途中には虹が顔を出すというサプライズもあり、そこにいた全員が確かに幸せに浸っていたように感じた。
一緒にいた友人は、OZROSAURUSのゴリゴリ武骨ラップを楽しんだ後だったからか、幸せそうに立ったまま寝てました。弁慶かよ。
・PANIC!AT THE DISCO
その後、ちょっぴり休憩をした後に、またまた友人のお眼鏡に適ったグループ、P!ATDを見に行くことに。
ライブ中、ボーカルが二度バク宙するという秋山幸二ばりの芸当を見せていたのが印象的だったが、それを抜きにしてもめちゃめちゃ格好良かった。
途中、Bohemian Rhapsodyのカバーを披露してくれて、「こんなの歌上手い人しかやらないじゃん!」と興奮し、その後見事にハマってThe Ballad Of Mona Lisaがカラオケでの持ち歌になるまでになりました。友よありがとう。
・PENTATONIX
オフスプを聴くときに少し良い場所にいたいね、ということでマウンテンステージ周辺をウロウロ。当時確か、PENTATONIXのperfumeカバーがちょうど流行ったタイミングだったと思う。
注目度の高さのおかげか結構人が集まっていて、私達も後ろの方で少し聴いていた。
衣装の色でキャラ分けがされているという、「それこそ若干perfumeっぽいのでは?」と感じてしまう彼らだったが、やっぱし圧巻の歌唱力でした。
失礼ながらサラッと聴くつもりだったので、途中でお手洗いに行ってしまったのだが、用を足している最中にperfumeメドレータイムに突入し最強の音姫体験が出来たのは良い思い出です。
彼らのライブを初めて見ての感想を述べるには、一個の記事を用意したいくらいに言いたいことや感じたことが山ほどある。
そのため、簡潔に述べるとすれば「来日して下さって本当にありがとうございました。一生の思い出が出来ました」。
また、別の記事で書くことにしよう。
サマソニ2017
2年連続参戦が決まってウキウキモードで幕張へ。
普通は、事前にお目当てのアーティストの曲を予習していくものだが、私はといえば、なぜか今更Arctic Monkeysのライブ映像を動画サイトで鬼ループし、木綿のハンカチーフをヘビーリピートするという奇行に走っていたため、今回もほぼ予備知識ゼロのまま見たいアーティストだけ挙げての参戦となった。
勿論、冒頭で述べたように当日券を買う出費はあったものの、その日を楽しめればそれは些細なことになると信じ、私は少しフライング気味にリストバンドを固く締めて、ゲートをくぐるに至った。
・Nakamura Emi
私は普段、松重豊のラジオを好んで聴いているのだが、そこにゲストで出るアーティストの多くが音楽フェスなどに出演しており、最近の音楽トレンドをそのラジオを通じて知っている格好になっている。
彼女もその中のゲストの一人だった。オンエア曲の「メジャーデビュー」という曲が気にかかり、くしくもサマソニ出演が決まったということでその音楽を聴きに行った。
とにかく、歌詞が格好良い。そして、その格好良さを増幅させる独特ながらも真っ直ぐな歌声。
舞台はガーデンステージ。去年のようにぬかるみなどは無いコンディションでほっとするのも束の間、「海浜幕張公園でセアカコケグモが発見されたので気を付けてください」という注意書きを発見。セアカ?赤…?今年も赤壁からは逃れられなかったようだ。
日差しはあるが天気はそこそこ良好だったので、屋台でちょいお高めメロンパンを買い、芝生に座ってほおばりながらのリラックス参戦。
口の中にはのほほんとした甘みが広がるなか、まず聴こえてきたのは「大人の言うことを聞け」だった。耳には苦み走った味わいある歌詞が広がるという、最高かつ甘辛な幕張の午後。やはり、なんだかんだガーデンステージは良い。
その後もメジャーな曲たちを聴かせてくれ、ラスト2曲のメジャーデビューとYAMABIKOとをぶっちぎりのパフォーマンスで走り抜けていった。
サマソニ初出演ということだったが、緊張を感じさせなくとても楽しそうに歌っていた姿が印象に残っている。本当に良いライブだった。
・Nulbarich
こちらもラジオで初めて知ったアーティスト。最近流行りの落ち着いたポップスが持ち味で、ガーデンステージにて鑑賞したのだが、次のエレカシとの兼ね合わせでやむなく途中離脱。
生歌でも充分に上手くて、良い意味でCD音源の雰囲気を裏切らない高い歌唱力。
ライブ前から沢山の人が集まっており、売れ筋グループとして認知されているんだなぁと感心させられた。
MCでの宮本さんの素のキャラクターを楽しみつつ、大ファンである友人の解説をちょくちょく聞きながらのライブ。どうやら、煙草をやめてから歌唱力が更に向上したらしい。
素晴らしい歌声は言うことなく、また観客への声かけが本当に前向きで、セットリストの「俺たちの明日」や「ファイティングマン」などと相まってすごく元気を貰えた。
勝手なイメージだが、「働くすべての人の味方」という感じが実感として胸にこみ上げてきた。こんなの好きになっちゃうに決まってるじゃんか。
在日ファンクと、まさかのジャンル&時間帯被りするという悲劇に泣いた方は多かっただろう。私達もその一人でどちらを見ようか悩んだが、結局スカパラを見ることに。
スカパラは終始ノリノリで、音が聴こえてきた瞬間には思わずプレモルを購入していたというゴキゲンぶりだった。間違いないね。
スカパラは予習抜きでも100%音楽を楽しめる最高のグループだと感じられたし、老若男女問わず身体が思わず動いている人が多かった印象。
エグイ雨雲をものともせずに、陽気な熱い演奏で雨を一滴も振らせなかった最高のパフォーマンスに、最後は友人と肩を組んで飛び跳ねるくらいに楽しめた。
・カルビン・ハリス
彼について知っていたことは、「日本で言う中田ヤスタカ的な人」という(本当に)酷くざっくりとした情報だけだった。
DJのプレイを味わうのは初めての経験で、いったいどうなるのかドキドキでもあったが、フェス用にあつらえられたドゥンドゥンサウンドのなか、マリンスタジアムのグラウンドで今年のロッテの鬱憤を晴らすがごとく飛び跳ねられた。
終わってみれば楽しいもので、「あー、来日マジ嬉ビン・ハリス。ペリー来航で開国してて良かったわ~」的なクソつまらんやり取りを友人とするくらいには楽しめました。
以上、長くはなったが2年分の思いを届けることができた。
フェスは意外に行ってみれば楽しいもので、勇気と興味って大事だなとも実感できる機会であった。
ただ、これに味を占めて「パンクスプリング」にも足を運ぼうとしたのだが、そっちはラップ声がめちゃめちゃいかちーZebraheadとかも出るので、絶対にガチそうなのでやめました。残念。
今後も、音楽との素敵な出会いの場に足を運べることを祈りつつ、今日は音のない静かな日曜日を過ごしている。これもまた良いものだ。
【音楽】キリンジの切り時が分からない
カラオケの選曲を一度もためらったことの無い人は幸せである。
なぜなら、そこには絶対の遂行力があるからだ。
自分の4,5分間の運命を共にする曲を決定するだけでなく、それを歌いこなし、エンディングまで持っていくという一連の流れ。キャラクター、愛嬌、アドリブ、歌唱力、時流を読む力、デンモク捌き、温度管理、タイムキープ、それら全てを駆使しなければ果たせぬ所業を前にして、多くの人は何らかの理由で、一度はためらってしまうものである。
しかし、私はそのためらいにはどこか「奥ゆかしさ」を感じずにはいられない。
ここでの奥ゆかしさが意味するのは、いわば「自衛手段」としてのためらいである。
例えば、見知らぬ人や会社の同僚との付き合いでのカラオケに引っ張り出された時、自分のスタンスが曲目によって決定されかねない場面で、しばしば選曲にためらいが生じることがあるだろう。また、フロント近くの部屋に通されてしまった時にも、誰に頼まれたわけでもないのに選曲を気にしてしまうこともあるかもしれない。
哀しいかなそういう時には、人々は時に美徳といわれる奥ゆかしさを武器に変え、右手にデンモクを左手にマイクを持ち戦っているのである。
激戦を潜り抜けた、軍人・山本五十六の名言を借りれば、
苦しいこともあるだろう
云い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
門脇舞以カバーのPretty Flyが歌い度いこともあるだろう
これらをじつとこらえてゆくのが大人のカラオケである
ということになる(?)。
ためらいの中で人は、善悪の基準がしばしばフラットになり、正解を追い求める探求心に身を焦がされ、くすぐったいような葛藤や気遣い、慎ましさなどの人間味に満たされる。
それはとても美しいことだと思う。ただ、ためらいが生じない時間というのも良い物である。自衛が必要のない許された空間。そして、それを共有できる気心知れた友人たち。私はそんな時を迎えると、ここぞとばかりにキリンジを歌うのである。
ということで今回は、キリンジの楽曲をいくつか挙げ、冒頭の奥ゆかしさ論と少しからめて好き勝手言いたいこと言います。
奥ゆかしさとキリンジ
前置きが大変長くなってしまったが、皆さんはカラオケでキリンジを歌うことはあるだろうか?
私はもちろんあるのだが、正直キリンジを歌うベストタイミングというのが分からない。それこそ、会社の二次会のカラオケとかで気軽に歌えるタイプではないだろう。
なんというか、キリンジの楽曲は全体的に奥ゆかしさを内包している印象があり、選曲の際にはついつい吟味をしてみたくなる。思えば、彼らの楽曲が持つ奥ゆかしさというのは、作品の質の向上を追い求め、売上だけに囚われないための「自衛策」なのではないかという気がしてくる。だとすれば、その大人で落ち着いており、なおかつ盛り上がるところは盛り上がれる楽曲の数々にはうなずける。選曲のタイミングも掴みづらいわけだ。
そうなると、キリンジの楽曲は歌うタイミングというよりも、誰とそれを共有できるか、というところが重要になってくるのではないだろうか。
つまり、カラオケにおいてキリンジに適切な切り時があるとすれば、それは親しい友人や大切な人がいる時であるのだ。そういう意味で、キリンジは親しさのリトマス試験紙だと言えよう。
以下、そんな素敵な楽曲をいくつか挙げ、私に起きた化学反応を細々と記していく。
情景を詳細に頭の中に描くことができる、疾走感がありながらゆったり聴ける一曲。終電を逃しカラオケでオールする際に歌うと、ほのかに自虐的で良い。それか、自分以外が全員寝落ちした、ラストマンスタンディング状態の時に歌うのも楽しい。夜の雰囲気もぴったりだし。
イントロからして立ち込めてくる良曲の予感が、確かに現実へ具現化される良曲である。
晴れの休日に、サンドイッチでもぶら下げて出かけたくなる一曲。
とってもごきげんな感じがするのが嬉しく、まるでおとぎ話を曲として聴いているかのようなくらいに幸せな空気を感じられる。軽やかに街へと駆けだすお供にはうってつけである。
ちなみに、MVに出た喫茶店を求めて江古田まで行ったことがあったが、そのお店が定休日だったことがある。ただ、その隣のお店のモーニングが最高に美味しかったので、まさにグッデイを過ごし、グッバイ出来た思い出がある。この楽曲の秘めた力は凄い。
世界で一番爽やかな「くたばれ」を楽しめる一曲。キリンジ入門にはうってつけで、複雑に張り巡らされたベース音の上を、踊るように独特の歌詞が滑っていく。その歌詞の巧みさとサウンドの心地よさとを堪能できる曲に仕上がっている。明るい曲調で、とっつきやすさを感じられる点も良い。
その落ち着きと静かな盛り上がりとが雨の日にぴったりであり、まるでキリンジを体現しているかのような一曲。憂鬱なようで心躍るような、雨の日に揺れ動く微妙な心情を的確に表現しているように感じる。また、MVに出ているダンサーの川口維さんがべらぼうにカワイイ。思わず雨の中を踊りたくなるような、現代版「雨に唄えば」ともいえる名曲なのではないだろうか。
最後に
上記の他にも、「雨を見くびるな」とか、「かどわかされて」とか、マイナスなように思われる日本語を引っ張り上げてきて楽曲に組み込んでしまうところが好きだ。
かどわかすなんて単語、キリンジで聞くか逆シャアで聞くかの二択だし。きちんと人間の負の部分にもしっかり焦点を当て、それを受け止めて作品に仕上げるというところに好感が持てるし、だからこそ大切な人との包み隠すことのない時間にぴったりなアーティストなのだといえるのではないだろうか。
あと、門脇舞以でオトすために名言を持ち出した山本五十六さんには大変申し訳ないことをしてしまった。
以前に何度か墓前参りを行ったので、どうかお許しください・・・・。
【生活】自販機ノスタルジー
私の街には、大塚製薬の自販機が一つしかない。
公式なデータも数字もないけれど、きっとそうに決まってる。こんなに小さい街の自販機勢力図は、そうそう変わりはしないのだから。
自転車を漕ぎながら、私はそんなことを考えていた。
数日前からのどの痛みがあり、放っておくと熱が出てしまうタイプの私は、休日の午前を病院での診察に充てた。
電動自転車を漕ぎながら病院へ向かい、世間話もそこそこに喉を診てもらう。処方された薬を受け取ったところで、今晩は禁酒令が発令されてしまったことに気が付いてしまった。
13時には駅から電車で発たなくてはいけなかったが、診察が終わって病院を出ると幸いにも少し時間が余っていた。眼前には、暑さでゆらめく田畑が不満げに居座り、周囲にはそれを諌めるでも歓迎するでもなく、のどかな住宅地の様相が広がっている。
うだる暑さと郷里の情景との間に立って、私はふと「昔の通学路を走ってみよう」という気分になった。幸運なことに帰りも自転車である。
ペダルに足をかけると、過ぎ去った時間を追いかけるように足が動き、タイヤの回転数を徐々に上げていった。
結論から言うと、通学路は何も変わっていなかった。
住宅がいくつか姿を変え、遊びまわった公園が少々古ぼけていた以外は、私の記憶が具現化させたような風景が流れていき、記憶の主を満足させた。
そこで私は、その記憶の端々に自販機の存在があることに気が付いた。
例えば、「あそこにキリンの自販機があったな」とか、「まだあの自販機はあるかな」とか、「この自販機で昔、暑い中炭酸買ったな」といった思い出が、ことあるごとにフラッと顔を出すのだ。
暑さのせいかもしれないが、そこにはお金がなかった学生時分の渇望が確かに感じられた。何もかもが冒険で新鮮だったあの頃、メーカーごとで品ぞろえが違う自販機は渇いた我々には宝の箱で、それらを追い求めることに何の躊躇も疲れもなかった。
ただ、毎回商品を買うだけの経済的余裕はなかったがために、買った買わないの思い出一つ一つがとても輝いているのだろう。そうも感じた。
「そうだ、あれを買おう!」
思い出がいくつか去来したあとで、たった一つの自販機と商品のことが私の頭の中には残っていた。この時をずっと待っていたかのように。
ファイブミニプラス。大塚製薬の自販機で販売されている、ビンに入ったオレンジ色の飲み物である。
サイズはそれほど大きくなく、自販機のラインナップの中でもこじんまりと佇んでいたことから、どこか「あれを買うのは大人だ」という思いがあった。ポカリやマッチといったライバルたちの存在も、ファイブミニプラスの地味さを強めてしまっていただろう。
ただ、なぜか炭酸とも思えないような色合いと、どこかひとクセあるような大塚製薬の自販機商品という2点が、私の興味を引きたてていたことも確かだった。そして、そのことが一気に私の脳内で目覚めを得た。こうなると、もう買いに走るしかなかった。
自販機の場所は、かつて何度も目の前を通ったクリーニング屋の隣。
遠目から見ても分かる位置に、まだその自販機は存在していた。
中段の右端。そこがファイブミニプラスの定位置だった。
ポカリスウェットのラベル独特のブルー、マッチの蛍光色の黄色、ジャワティーの控え目な色彩、私の目はそれらを受け止めつつも、唯一無二の橙色を捉えようとする。
しかし、そこにはすでにファイブミニプラスの姿はなかった。
私は、いつでもファイブミニプラスを買えるような人間になって初めて、ボタンを押すまでは何も手に入らないという真理を思い知らされたのだ。
昔と変わらないと思っていた街並みは、確かに時を刻んでいた。
時が経って私が変わったのと同じようにこの街も変わっていて、一つの商品が自販機から消えたことも、確かに街の変革の一翼をになっていたのである。
ただ、最終的に私は何も自販機で買わなかったが、決して悲観的になることはなかった。
なぜなら、この街に唯一の大塚製薬の自販機がある限り、そこにまたファイブミニプラスの姿を拝むことができるかもしれず、その時には迷わずボタンを押せる大人であろうと、小さくも確かに心で誓ったからである。
あとがき
トンカツ慕情のファイブミニプラス版(?)だと言われてしまえばそれまでだが、意外に昔の自販機のラインナップって覚えているものである。(もちろん、路地裏でボッコボコにされて、通りがかりの叔父さんにファイブミニプラス奢ってもらってはない)
あの頃は自由に飲み物が買えなかったからこそ、自然と憧れみたいなものが生じていたのかもしれない。
そんな小さい頃のドキドキとかを思い出して、今回は少し語ってしまったわけなのですが、昔の思い出とか諸々ひっくるめつつ未来に生きていきたいという思いを込めて、この曲でさようなら。
【生活】困った大学生たちを三国志に置き換えてハッピーライフ
日本の大学が増えている。
これは決してイメージなどではない。我々の目の前に出現している現実問題だ。(主に私立大学が増えていることが分かる)
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/002b/1368900.htm (文部科学統計要覧平成28年度版)より
決して広いとは言えないこの日本において、それぞれ個性を持った大学同士がしのぎを削り、生徒の確保と大学の存続とを画策しあっているのである。
まさに、世は空前の大学設立ブームと言って差し支えなく、増え続ける大学の実態を完全に掌握するのは至難の業であると思われる。それこそ、幾人もの英雄たちが立ち上がっては消えていった、「群雄割拠」と呼ぶに相違ない三国志時代を彷彿とさせる。
前置きはさておき、話題の中心はそこへと通う大学生たちへと移る。
私の住む街はいわゆる学生街であり、周辺を歩けばそれらしい若者を見つけることは容易だ。少し離れているが大学もあることから、日常的に大学生が近くにいる生活を送っている。良く言えば希望と若さとに満ち溢れた、活気のある街での暮らしを送っているといっても良いだろう。
しかし残念なことに、彼らが若さゆえか「ちょっとどうなんだ?」と思ってしまうような行動を取ることがある。
そういうことがあるのは仕方がないとは思う。私も昔はそんな感じの学生だと思われていたかもしれないし。
だが、少し危なっかしいような場面もあったりするため、心中はモヤモヤしている。ただ、注意して止める程ではないために、このモヤモヤ晴らさでおくべきか、という微妙に擦れ動く乙女(お止め)心のような感情の行き場に困っていた。
そこで今回の記事では、最近の諸大学が「群雄割拠」してるということで、困った学生たちの問題行動を紹介し、それを三国志になぞらえて適当に対処法を考案していこうと思う。モヤモヤを晴らすにはうってつけ。まさに、していこう推薦である。シラフです。
・大学近くの通りで横並びになり、自動車の通行を妨げる
これは大変である。下手をすれば、車との接触ということも考えられる。
しかし、彼らが鶴翼の陣を展開していると思えば、「そうか~、末端の兵士は指揮官の命令には絶対だしな~」とか、「彼らの指揮官は鶴翼が得意なのかな~」といった想像にたどり着き、長蛇の陣形が苦手な指揮官を持ったが故の悲しい白兵戦と割り切ることができる。それに、「こっちは(自動)車懸だぞ!」と思えば、少し優越感にも浸れるので、余裕をもって運転することにも繋がるのである。
・サークルかなんかの飲み会後に、駅周辺で声あげたりしてちょっと煩い
サークルで飲み会をするのは楽しい。それに、別れが名残惜しいのも分かる。ただ、やっぱり迷惑なのである。駅前だし。
しかし、彼らが小隊士気を上げるために発声で鼓舞しあっていると思えば、「そうか~、戦が近いのかな~」とか、「彼らの指揮官はチームを大切にしてるのかな~」といった想像にたどり着き、彼らを戦前に別れを惜しむ悲しきソルジャーたちと割り切ることができる。それに、最近では「意識高い系」という言葉が世に出回っているので、そろそろ駅前で騒いでる小隊のような「士気高い系」な学生が生じてもおかしくはないと思う。ただ、そういう連中はたいてい指揮系統が適当なため、「指揮他界系」でもあるのが玉に瑕だ。
・飲み会後に、そこら辺に吐いたりしてる
大人でも、演義での張飛や淳于瓊のように酒で失敗する者もいる。ましてや経験の浅い若者にとって、酒は曲者であるといえよう。そのため、飲み過ぎたあかつきには必ず良くない結果が訪れるものだ。経験不足とはいえ、しっかりとした対処はしてほしいものである。特に春先、駅前が華の舞しちゃうのは見るに耐えない。
しかし、彼らが傷病兵、あるいは守りを固めた司馬懿を挑発するためにあえて吐いてる様を見せていると思えば、「そうか~、北伐やってんのかな~」とか、「衛生兵は忙しそうだな~」といった想像にたどり着き、彼らを北伐で魏と対峙し疲弊した蜀兵だと割り切ることができる。それに、「戦時に酒が飲める時代なんて、良い時代じゃないか」とも感じられ、ほっこりした気持ちに繋がるのである。
・勉強をおろそかにしてしまい、単位を落としまくる
これには私は、直接なんらかの被害を被ってはいないので何の関係もない。だが、誰も得しないこんな現象はこの世から減るべきだと切に願う。
しかし、彼らが陥陣営・高順だと思えば、「その名に違わぬな~」とか、「可否(下邳)の戦いでは奮戦及ばずだったしな~」といった想像にたどり着き、テストには挑戦(貂蝉)する攻勢(侯成)には出たものの精錬(成廉)してなかったがために、超爆(張邈)死したのだと理解することができる。適度に遊び、適度に学ぼう。
以上で、溜飲下げ下げの儀は終了である。三国志との関係性薄くなかった?
個人的には、高順の名前が出せたのでもう満足。そして、大学生諸君にはミスもしつつ、将来的には素敵な大人になって欲しいと願うばかりである。
【音楽】塊フォルテッシモ魂こそ、最強の「塊」で「魂」である。
「塵も積もれば山となる」という言葉がそのままゲームになっちゃったような、ナムコ発の天才的ゲームタイトルこそ「塊魂」である。
単純明快な操作性と、どこか怪しげな登場人物たちや街の人々、そして次々と巻き込まれていく森羅万象とが相まって、その独特さは他の追随を許さない。今なお、国内外問わず多くのファンに愛されるビッグタイトルとして有名だ。
そんな塊魂の魅力の一つに、プレイ中に流れるゲーム内音楽の存在が挙げられる。
ボーカルがない楽曲も良いのだが、特にボーカル付きの楽曲の場合は、そのどれもが大変にハイクオリティである。
あくまでプレイ中のBGMという扱いではあるものの、豪華歌手陣による圧倒的なボリュームを誇る歌の数々には思わず気を取られて聴き入ってしまい、誕生日プレゼントとしてサントラを購入してもらった覚えがある。即断即決であった。
今回はそんな塊魂の素敵楽曲を、サウンドトラック「塊フォルテッシモ魂」より紹介していき、好き勝手に言いたいことを言おうと思う。
・ナナナン魂‐ゆうさま
ナナナン塊(Katamari Nah-Nah) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
塊魂といえばこの曲。この曲こそ塊魂における原初の音楽である。というのも、プレーヤーがまず真っ先に聴く曲がこれだからだ。
初めにどのセーブデータで遊ぶかを選択する際に、この曲がどこからともなく流れてくる。その曲を歌う不思議で怪しい声の主は、「ナン」と「ドゥンドゥク」という2種類の言葉のみでプレイヤーに迫る。まるで、持ち球がストレートとカーブのみという、パワプロでの江川卓である。
早く先へ進みたいと思わせる一方で、もうちょっと聴いていたいとも思わせる、二面的な魅力を持った一曲であると言えよう。
・塊オンザロック‐田中雅之
塊オンザロック~メインテーマ(Katamari on the Rocks ~ Main Theme) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
ナナナン魂の流れそのままに、更にそれを壮大にした感じのするメインテーマ。
OP映像から繰り広げられる、塊魂のカオスな世界観を受け止めるだけの力強さをこの曲に感じさせるのは、田中雅之のボーカルあってこそである。
またサビにおいて、「塊魂」という単語が贅沢なくらいに繰り返されており、それもメインテーマとしての地位を確固たるものにしているといえる。
・月と王子‐新沼謙治
月と王子(The Moon & The Prince) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
演歌歌手である新沼謙治がラップに挑戦するという、とんでもなくレアでそれでいて熱い一曲。
色物ソングかと思いきや、聴いてみると前向きなリリックがとめどなく溢れ出てきて、しっかりとした応援ソングに仕上がっている。また、決して流暢とは言えないものの、一生懸命さが伝わる新沼謙治の英語の発音が、クセになるばかりでなく胸を打つ。
そもそも、このゲーム自体何でもありのフリースタイルダンジョンって感じなので、演歌歌手とラップという組み合わせが見事に融合するのも頷ける。いつか、吉幾三とラップで共演してほしいものである。
・Lonely Rolling Star-椛田早紀
Katamari Damacy Soundtrack - 05 - Lonely Rolling Star
女性ボーカルの可愛らしい、それでいて落ち着いた雰囲気の良曲。
散りばめられたピコピコ音もボーカルの可愛らしさを良く引き立てており、全体的に完成度が高い。前述の「月と王子」とは違う雰囲気ではあるが、こちらも前を向く元気を貰える一曲だ。
・Katamari Mambo~塊シンドロームMix‐松原のぶえ&坂本ちゃん
【塊魂】katamari mambo ~塊シンドロームmix
こちらは、演歌歌手の松原のぶえとタレントの坂本ちゃんとのデュエットソング。
マンボなのに終始演歌チックな歌唱の松原のぶえと、終始やかましい(良い意味で)坂本ちゃんの合いの手とのコラボが面白い。
艶めかしいようなチャカポコ具合が、この楽曲を最高に怪しい雰囲気に仕上げているが、そこは実力派の松原のぶえが安定感を与えており、絶妙なバランスを保っている。
一度聴いたら忘れられない、印象的な一曲だと言えよう。
真っ赤なバラとジントニック(Gin & Tonic & Red Red Roses) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
ジャズ調の音楽に乗せて流れてくる水森亜土のスキャットが軽快で心地よい。
彼女の声は自由に飛び跳ねていて、歌い方がジャズにぴったり。そして、バックの演奏はまるで転げ落ちそうなくらいにノリノリなのだが、それ以上に水森亜土がノリノリなため、安心して見ていられる綱渡りのような快いむず痒さを聴く者に生じさせる。
パッと聴いただけでは、「ジントニックって感じか?」と思ってしまうが、愉快なスキャットは炭酸はじけるトニックウォーター、そしてバックの渋みの効いたジャズはライムのほろ苦さ、落ち着きが無いようで絶妙に楽曲がまとまっている様は抑えの利いたジンの香りをそれぞれ連想するに難くない気がする。
自由闊達な水森ワールドを、思いっきり堪能できる一曲に仕上がっているといえよう。
・ ケ・セラ・セラ‐チャーリー・コーセイ
ケ・セラ・セラ(Que Sera Sera) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
こちらも同じくジャズである。イントロからして文句なしなのだが、案の定ボーカルが入ってきても裏切られることのない充実感を味える。
この曲では、場数を感じさせるチャーリー・コーセイの声が本当に素敵に耳に響く。更に、目立ち過ぎないピアノの伴奏や弦のベース音なども良い仕事をしており、主役のボーカルを引き立てている。
こちらは、ゆったり落ち着いて聴ける雰囲気で、お供にはロックグラスと甘すぎないアルコール飲料とがよく似合う。
静謐な大人の夜にも受け入れられるような、そんな良質な癒しを与えてくれる名曲であると宣言できよう。
・カタマりたいの‐浅香唯
カタマりたいの(Roll Me In) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
こちらも、実にアダルトな雰囲気漂う一曲である。それを、浅香唯がしっとりと見事に歌いあげている。
そのジャンルには明るくないが、誤解を恐れず言うのであればこの曲は、AORに分類できるのではないだろうか?それくらいに、成熟された空気を曲全体がまとっているように感じられる。
この曲が、ウニ町だったかシオ町だったかそんな名前の町でプレイ中に流れるのだから、町民も楽しい毎日を送れるってもんである。
・さくらいろの季節‐かたまり隊Jr.
さくらいろの季節(Cherry Tree Times) - 塊魂サウンドトラック 「塊フォルテッシモ魂」
この曲で今までの雰囲気はガラッと変わり、子供達による合唱という新しい刺激を我々に与えてくれる。
歌詞の内容は、「好きな人と一緒に外へ出かける」というような、可愛らしくもちょっとの背伸びをも感じさせるものだ。それを子供達が一生懸命に歌っているのが何とも言えず良い。
歌詞の随所には春を感じられ、曲調と歌声の優しさが一層「桜色」を際立たせている辺り、「合唱コンとかでも通用するのでは?」と、半分真面目に思ってしまうほどの良い一曲である。あと、しれっと大人もコーラス参加しているのが、相対性理論の真部さんっぽくて好き。
・愛のカタマリー‐松崎しげる
カタマリーって何だよ?と言うなかれ。ご存じ「愛のメモリー」が昇華したのがこの一曲である。
まさに締めくくりに相応しく、しげるが情感たっぷりにエンディング感を盛り上げてくれるのが嬉しい。また、曲の途中で挙げられる「輝く条件」で、なぜか日に焼けた肌という項目が登場し、そこだけエコーがかかるというこだわりっぷり。スタッフのしげる愛が充分に感じられる、これこそが正に「愛の塊」なのである。
以上、永遠にも感じられるくらいに長い文章となってしまった。
ただ、サントラを聴いてもらうと分かるが、様々な音楽ジャンルが融合し、それぞれに力が込められた様は、まさに「塊」に「魂」が注入されているのであり、ゲームの名に負けないくらいに傑作として世に送り出されているのである。
なので皆さんも、ぜひ楽曲に巻き込まれてみて、ハッピーな気持ちになって欲しい。
それこそが、王子が塊を転がす理由の一つなのだから。
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- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
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【映画】ブラックレインと映える月
先日の深夜、映画「ブラックレイン」がBSプレミアムでやるということで、迷わず録画をした。
松田優作の遺作として知られる作品で前から気になっていたが、加えて英語の台詞を頑張る高倉健が見られるということで、「今日こそは絶対見るぞ!」と、ワクワクが止まらなかった。
とはいえ、内容がヤクザものということで、劇中にハードな戦闘シーンが出ることは容易に予想できた。
ということで、録画が溜まっていた「月がきれい」を一気に11話まで見て、陰と陽とのバランスを取ってから視聴することに。誰も死なないし。
気が付いたら、茜ちゃんと小太郎くんがフツーにチューするようになってて、なぜか私の今年の夏が終わったような気がした。なんでだよ。
12話目はまだ見ていないが、全体的に初々しい恋路だけでなく、家族の暖かさ(主に安曇家の)も楽しめることの出来る、良い作品だったと思う。SNSの描写も細かく、時代に即していた印象。
とかなんとか思いつつ、やっと本題の「ブラックレイン」の内容に触れていく。
実際に見てみると、ツッコミどころが1億個あったと思う(※個人差あり)ので、最初に全体的な(考察とまでは昇華しきれない)感想を述べ、その後に細かく気になったところをちょいちょい好き放題言っていきます。
リドリー・スコットの日本観
「ブラックレイン」では、ニューヨーク市警のニックとチャーリーが日本の文化に翻弄される様が描かれている。
そしてそれは、もしかしたら当時の大半のアメリカ人が日本に抱いていたイメージを、リドリー・スコットが彼なりに解釈し、映像に投影したものなのではないだろうか。
そこで、そのような日本観を表すために、松本刑事役の高倉健、やくざの佐藤役の松田優作の両名が対称的なキャラクターを与えられていたように思う。
・松本刑事→仕事一徹の真面目人間だが、頭が固めで控え目である。今作では通訳をこなすため、多弁。少々流行に疎い面がある。
・佐藤→日本特有のやくざの世界に生きているため、謎のベールに包まれている。英語でのコミュニケーションはとらず、何を考えているか分からない面がある。
そこには、
「日本人は勤勉であるが融通が利きづらく、文化はアメリカよりも少し遅れている」というステレオタイプ的な面(松本のキャラクター)と、
「日本の文化は理解できない面も多く、言葉に出ないコミュニケーションなどはつかみどころがなく不気味である」というアメリカ人には不可解な異文化の面(佐藤のキャラクター)とが見て取れる。
また、ニックとチャーリーのキャラクターとしては、「先進的、柔軟、調子が良い」というような、今作の日本人にはあまり見られない面が与えられているように思える。
加えて、それらを目の当たりにするニューヨーク市警のニックとチャーリーが、ゴリゴリの都会暮らしであるという点は、日本とアメリカとの文化や考え方の違いを色濃くすることに一役買っている。
結論として、「日本は未だ少し文化的には遅れているかもしれないが、見どころが多い国であり国民だよね」というリドリー・スコットの好意的な日本観が、今作では発信されているということがいえるのではないだろうか。
松田優作と高倉健との、興味深い比較
前述したように、対称的であるキャラクターを演じた高倉健と松田優作であったが、演技の雰囲気も対称的であったように思える。
劇中、高倉健は英語の台詞が多く、松田優作は英語での台詞はほとんどなかった。
ただ、彼らの演技を見るに、高倉健はあまり表情を使わない武骨な刑事役という印象であったのに対し、松田優作はかなり表情を使って大きく演技をしていたように感じた。
台詞は多いが「静」のイメージの高倉健に対して、(英語での)台詞は少ないが「動」のイメージの松田優作という、面白いギャップが見て取れるのだ。
そのため、松本刑事は日本的なイメージを醸し出し、佐藤はどこか日本人離れしたイメージ、つまりアメリカ人の知らない日本を感じさせる怪しい雰囲気を醸し出しているのだと思う。
ここまで意図したキャスティングだったかは分からないが、どちらも二人の演技がハマったことで成立した役柄だったのではないのか、と感じるに至ったのである。
以下、気になったとこ抜粋
・あーん!チャーリーが死んだ!
まさか、最初の方のムレータの下りが死亡フラグになるとは思わず、お茶目で男前で、そして主人公の理解者でもある良心チャーリーが中盤に死んでしまい「やんぬるかな」って感じでした。
もうさ、ああいう良い奴が死ぬのは本当に悲しい。Zのアポリー中尉の時くらい悲しいよ。チャーリー役のアンディ・ガルシアが格好良く、とても好印象だったのに死んでしまったので、チャリ様よいしょ本書くしかないね。
・ガッツ石松渾身の演技
劇中、佐藤の部下役でガッツ石松が出てくる。
今作では松田優作らの演技に注目が集まるが、ガッツさんの「俺は英語分かんねぇから日本語で話しやがれ」的な台詞のところに気持ちがこもってて好きでした。私も英語分からないので、100いいねくらいしたいシーン。
あと、最初観たとき内田裕也には気が付きませんでした。私が知っている最古の内田裕也は、ピエロに囲まれていた時の彼なので、それよか若々しくてびっくりしました。彼の英語こなれてる感、好きです。
・松本正隆、和製ジョンメイトリクス説
ニックに散々振り回されて刑事を停職になったにもかかわらず、どこからか銃を持参してドンパチ賑やかに大暴れしていた松本刑事が見られるシーンでは思わず、「軍を退いたのに危険が迫ったので、自前の銃器で無双乱舞するジョン・メイトリクス」を連想してしまいました。野生の証明といい、高倉健さんには人間武器庫の才能があるのだろうか・・・・?
などなど、挙げだしたらキリがないほどに内容の濃い映画であった。
名優たちが出ていることだし、「ブラックレイン」は機会があるならば一度見てみると良いかもしれない。また、ブレードランナーと合わせて観ると、なんとなく描かれ方がつながって面白いとも思う。
更にお好みで、美少女日常系アニメ等を前後に見ると、作品の色の違いに心地よく打ちのめされること請け合いです。やってみてね。
【ゲーム】サルゲッチュのサルコメントに気付かされる人生2
「来る者拒まず、去る者追わず」という言葉がある。
どういう経緯で使われ始めた言葉かは知らないが、この言葉こそ寛大さや自由さの象徴で、個々の人間の抱えるものが複雑になりつつある現代にとっては、非常に重要な考え方を提示してくれるのではないだろうかと思う。
一方、サルゲッチュはどうだろう?
サルゲッチュといえば、プレーヤーが主人公を動かし、その道中を遮ろうとする敵や障害物とをなんとかやり過ごして、サルを捕まえるゲームだ。
言い換えれば、「来る者拒み、サル者追う」ということになる(?)。前述した言葉とは全くの正反対であると言える。
では、サルゲッチュは自由ではないのだろうか?
確かにゲームの性質上、ある程度決められた操作やコースでステージを攻略していく様は、見方によっては不自由であると言える。
しかし、そのようなある種の箱庭に彩りを持たせてくれるのが、個々のサルたちの個性あふれるコメント群なのだ。そこには、不自由さの中に溢れる無限の自由度が垣間見え、顔のグラフィックが数種しかないサルたちに、確固たるアイデンティティを植え付けているのだ。
というわけで今回も、そんな素敵で有意義なサルコメントのなかから、我々に気付きを与えてくれるであろうコメントを抜粋し、好き勝手言いたいこと言います。
なお、各サルの名前やサルコメントなどの著作権は「株式会社ソニー・インタラクティブエンタテインメント」に帰属します。
ニーハオハリウッド そしてサイチェン
-ウッキーチェーン(てくてくバンリ)
彼の元ネタは勿論、ジャッキー・チェンであろう。
何気ない一言のように思えるが、そこにはドラマがあって非常に良い。
どのような紆余曲折を経て、ウッキーはハリウッドにたどり着いたのか?彼はハリウッドで何を成し遂げたのか?そしてもしや、再びハリウッドの地を踏む気なのではないだろうか?
何一つ明らかにされないなかで確かなことは、彼がウッキーチェーンであることのみである。
そこには、「過去も未来も今の自分次第だ。そして、今こそがあなたを形作っているのだ」という熱いメッセージが込められているように思えてならない。
ジャーマンテクノにうるさい
‐サルブラン(からくりキャッスル)
子供向けゲームにも関わらず、ジャーマンテクノという単語を平気で放り込んでくるゲームスタッフには感嘆するしかない。クラフトワークすらろくすっぽ聴いてない私からすれば、彼は全貌の対象である。
子供をキチンと一人の人間として捉え、「君にしかない感性を大事にして欲しい」という、ゲームスタッフの熱い思いがひしひしと伝わってくる。きっと、自分の感性を信じ、磨き上げてきた素敵なスタッフたちが多く携わったゲームなのだろう。
このような観点から、もはやサルゲッチュは、情操教育の水準に達していると言っても差し支えはないだろう。
「エスプレッソってなに?」
‐サルグリ(からくりキャッスル)
我々は、普段何気なく過ごしていると、あって当たり前のものに関しては目を光らせなくなる。
そこで彼のこの一言だ。まさに子供のような着眼点で、それでいて素直な疑問をストレートに我々にぶつけているのだ。
例えばビジネスシーンなどで、カタカナ言葉を多く使いこなす人を見かけることがある。その人にとっては当たり前の言葉の羅列でも、その一つ一つの意味を曖昧に捉えている場合があるかもしれない。
セグメントってなに?
アグリーってなに??
スキームってなに???
このような疑問を持つことは自身のスキル向上につながり、広い視野や柔軟な考え、あるいは物事を論理的に考える時間を与えてくれる可能性もある。
勿論、誰かに分からないことを素直に分からないと言うのは苦渋の決断かも知れないが、その決断が間違っていないことを、苦汁が教えてくれているように思える。
たたかいにつかれたせんし
‐マグナム(スペクターランド)
人は皆、与えられた環境で戦っているものだ。
戦っているつもりがなくても、気が付かぬうちに疲労は溜まり、人にはよってはそれが顕在化してしまうこともあるだろう。
だが、それもあなたが戦士として戦っているからにほかならない。
「ストレスなどで疲れ切ってしまい日々の生活が嫌になっているお前さんは、誇り高き戦士なんだ。戦う上で、そのことだけは忘れるな」と、マグナムは私達に激励をしてくれているのだ。
長くなってしまったが、ひとまずサルゲッチュ内のコメント抜粋は以上である。
サルもなかなか深いことを言ってくれている。人間である私たちはそれに応え、明日から少しでも元気になっていかなくては、いずれはサルに支配されてしまうかもしれない。
昔プレイしたゲームから、改めて人生の大事な教訓やスパイスを得る。これは、「去る者を追い、来る者有り」という言葉で表され、後の「Back to the Future」シリーズ形成にも大きく影響を与えたという(大嘘)